(クルマ) LEDが「シカっパシっ」と光る、最近のドアミラーが苦手だ(カレントライフ編)

シカっパシっ!

(クルマ) 自分で凹ませたフェンダーの補修(後編)

(前編はコチラ)

先週塗った上半分、はみ出してた部分をヤスリであたって削り整形しといた。はみ出してると、すっごい自分で塗った感出てたのには気がついてたよ(笑)。そして、ぬったあたりがざらついてたので、コンパウンドをかけるなど。
ちょっと風が強いから青空塗装に向かない天候だったけど、天気もいいしな。
ちなみに今回の塗装で大活躍したビニール付きのマスキングテープ。え?これ定番なの?むっちゃ重宝したわー、これ。
というわけで慎重にマスキング。
プシュー。
盛大に垂れてるところあるけど、また来週ヤスリであたって整形すりゃいいしな、的な。
一旦完成。何度も書くけど、つっこみは不要(笑)。来週コンパウンドで整形してしあげ。

(クルマ) 自分で凹ませたフェンダーの補修(前編)

やらかした。
サタケさんが工事にきてる日、義母の訪問リハビリの担当の方がちょうど来て、クルマ早く入れ替えないと、と焦ってしまい、自宅敷地内の壁の角で左前を凹ます。当然自分も凹む。
簡単に済むかもしれない、という望みをもって以前オルタネータの交換をやってもらった弘明寺の整興モーターサービスへ行ってみた。
どうやら、この型のセルシオはバンパーの脱着が超面倒らしく、それだけで3万円もかかるとのこと。板金塗装で7万円ちょっとの見積もりということで、合計10万円。ないわー。いや、この店は良心的でそれでも安くしてくれているが、購入金額とのバランスが著しく悪い(笑)
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よくみたら、ホイールアーチにもガリっといってる(泣)
その一週間放置(笑)
意を決して自分でやることにして、もろもろ材料を買った。結局8000円くらいだったかな、合計で。白い部分とシルバーの部分は分けてやることに。まずは白い部分に着手。最初のステップは下地処理。塗装が剥がれたところ何かを耐水ペーパーでけずって地金を出す。
そして、パテをもる。どうせけずるので、表面は気にしないで盛り付ける。
そういや、ちょっと前にもパテ盛ってたな、おれ。
翌日乾いたところで、180番の耐水ペーパーで形を整えてみる。だいたいの形になった気になったくらいで完成とした。まあ、もっかいパテ盛ってキレイにしようと思えばできそうな気もしたけど、もう、だいたいで良しとした。
そしてまた一週間放置(笑)だって、時間ないんだもん。いろいろあってな。
ようやく塗装する気になってライトまわりの外して塗装準備。
そしてマスキング。グリーンのテープとビニールが一体化した塗装マスキング用のテープが便利。ライト前のバンパーの塗装がひび割れてたのでそこも塗っちゃうことにしたので、比較的広い部分を塗ることになった。マスキングだけはちゃんとやった。
プライマー。
風が強くてボディにだいぶついてしまった気がするけど、気が付かなかったことにする。
プシュー。
白のペイントと「ぼかし剤」ってのを交互に吹くと、少々タレてもうまいこと消えてそれなりの仕上がりになる。何回かに分けて塗装して、最期にクリアを吹いて、塗装終了。かさぶたみたいなのもあるし、ムラもあるし、そもそもライン出てないけど、まあ、注意して見なければ、気にならない程度には塗れた気になって作業は日没終了。
部品を組み付けて作業終了。まあ、最初の写真よりはマシになったからいいかな。突っ込まないでください。

(お父さん) 震災の時、ドライバーをしたこと

昔むかし、facebookの投稿には文字数制限があって。
ちょっと長く書こうと思うと、「ノート」というfacebook内のアプリを使う
必要があった。いつの頃から、文字数制限はなくなって、ノートに書いたことは
埋もれそうになっている。というわけで、震災の年、2011年3月21日にノートに
書いたことをこっちに再掲載しておく。

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(地震) 弾丸ドライバーボランティア報告(女川)
2011年3月21日 13:50

<きっかけ>
前職時代の知人が紹介してくれた「弾丸ドライバー」募集のtweet。
何も考えずとりあえずRTしてエントリー。電話では金曜の晩出発かもと言われたが、
とりあえず金曜はナシ。あっても土曜の晩出発、との連絡あり。

<呼び出し>
明けて土曜日、連絡はもらえなかったので、午後電話してみたら、「今晩の便は人が
足りたので、今週末は大丈夫かも」とこと。娘と売り切れ続出のヨーカドーを
見に散歩に出て、ヤキトリを買って帰って、ビール開けてさぁ、飲もう、
というところで電話。
「今晩いけますか?」
とりあえず「行けます」とだけ答えて準備開始。
嫁さんが心配しているのは安全だけではなく、そのボランティアのバックグラウンド。
本当に善意の人なのか?特定の政治団体や宗教団体と関係があるのではないか?
行き先はどこなのか?と当たり前のギモンをぶつける。

そりゃそうだ。被災地のために何かできる、というイキオイだけで舞い上がっていて、
そういうところをまったくケアしていなかった。ただ、行かない前にそれがわからない
という理由だけで断るのもいかんな、と考えとりあえず指定の9時に集合場所の都内
某所へ行ってみた。

宅配便の集配所のようになっているが、CMの制作会社のオフィス兼スタジオらしい
(後できいた)。入り口に同じ会社のクニがいるのを発見。なんだ、そういうことか。
まぁ、わかってしまえば、安心。ここでは詳細は置いておくけど、決してアヤシイ
ものではありません、ということはわかった。

到着直前に電話あって、「出発、明朝の5時に変更なんですが」と言われてましても、
その時間にここに到着する時間がありませんので仮眠させてください、とお願い。
地下の会議室の床で支援物資のふとんを借りて仮眠して朝を待つ。

<出発>

果たして、明るくなって、だんだん人が集まって来て、結局出発は7時ちょい前。
トラック1台とマイクロバスで東北道へ。蓮田で合流するトラックの運転要員に
アサインされたので、蓮田まではトラックの助手席。北へ向かうタンクローリーを
何台も目撃。早く早く。

<仙台>
白石付近で交差する新幹線の高架線が斜めになっているのを発見したあたりから
東北道に段差が増え、緊急工事をした跡も多く、トラックが縦揺れを始める。
仙台市内まで運転して、プロドライバーのS氏へ運転を交代。
助手席でUSTを始めたら、路肩にガソリンスタンドへ続く長い車列。1kmはあった
かな。国道45号線、多賀城の中野栄という駅を過ぎたくらいから、道路の両側に
ようやく原型をとどめたレベルのクルマの残骸が路肩に並んでいる。
津波にで流されて道の真ん中にあったクルマを寄せたんだろう。通りの左右に並ぶ
店や駐車場には積み重なったクルマ、ひっくり帰ったクルマなど多数。
地図を見たら、仙台塩釜港のスグ近くなのね、そのへん。
屋根やボンネットに白い紙がはってある、納車前の新車らしい被害車とかもあった。
クルマが傷んでいる姿は本当に悲しいし、オーナーの気持ちは察するにあまりある。
市内の関係者と調整して目的地は女川へ決定。三陸自動車道経由で女川へ向かう。
途中、津波ではなく、川のはん濫で被害を受けた地域も通過。
多分、陸前稲井あたりで旧北上川がはん濫したのだと思われる。
また、万石浦でも、湾が溢れて石巻線の線路を海水が襲ったあとがあった。
このあたりから携帯は全部圏外。

<女川>
女川バイパスで峠を超え、下り始めたら、そこは津波の被害を受けていた。

とにかく、「かなりの標高のところまで」「根こそぎ」やられている。
街の高台にある市民会館みたいな建物でも、そこまで波が来たことがわかる。

多分、5階か6階の高さまで水に使ったのだと思う。クルマがいろんなところに
想像を絶する形でひっかかっている。それぞれは重たい金属のカタマリなのに。

大きな鉄筋のたてものも、かろうじて残ってはいても、屋上まで水につかって
しまっているし、まっすぐ立ってないものも多い。

本当に「根こそぎ」だ。
そして、かなり高台の上でも磯の匂いが強い。

<物資>
物資を貯蔵している第二小学校の体育館には、物資は比較的たくさんあった。

取りに見えたと思われる地元の人は申し訳なさそうに、一箱とか二箱をお持ちに
なる程度。クルマで来て「XX地区でーす」という方々も控えめに数箱お持ちに
なるだけ。すぐ近くに避難所があるが、そこへ行って被災された方々と直接
会うのはあきらめた。どんな言葉もかけられないと思ったし。「がんばって」
なんて言えないと思った。がんばるのはこっちだ。
そして、この倉庫にある支援物資を被災者の方々(避難所にいる人、かろうじて
自宅にいられる人の両方)にちゃんと渡る算段と段取りをやって欲しいと思った。
どんどん届く物資の前で担当しているであろう人は既に無力感満載だった。

この役目は被災者ではなく、物資を持って来た側が責任もってやるべきだろう。
置いて来ることは、援助の中で50%も済んでいないと思った。持って行くほうは
これで大丈夫、99%済んだと思うかもしれないが、実は半分もいってない。
その先がタイヘンなんだと知った。

<帰り>
万石浦の満潮(?)で海水が溢れて、道路が冠水していた。水深30cmくらいは
あったか。その後しばらくブレーキの片効きに悩まされた。

三陸自動車道+東北自動車道を弾丸で帰って、トラックの都合で解散は
東西線西葛西駅で22時半くらい。自宅到着24時ちょっと前。
オツカレ。
家族といっしょにいられること、温かいものが食べられること、ビールが
飲めること、どれも普段は当たり前だけど、本当に大事なことと知った。
撮ってきた写真を見てたら涙が止まらくなった。
ボランティアらしいボランティアは実は初めてだったが、やってよかった、と
いうことよりも、自身への問いかけが多くのこった体験だった。