(介護) 老いた親による捜索依頼

今日本当にあった話。
学生時代からのツレの一人が今いる現場はセキュリティが厳しくて、私物携帯の持ち込みが制限されている。彼がその現場にいるタイミングで80歳オーバーのお母さんさんのPCのメーラが起動しなくなる。お母さんはメールができないので、息子の携帯に電話する。すると「圏外です」と言われる。お母さん焦る、お父さんに言う、お父さん、電話やメールしてみるが、返事がない。もう、もともとのお母さんの話題は飛んでしまって、息子大丈夫か?の方が問題になってしまう。昔、息子から知らされたツレの携帯に電話かける、連絡先のひとつだった番号はオレの前職の番号w。
電話を受けた後任者がヤバいと思ってオレにメッセージしてくる、みたいな連鎖。だって、やたら心配したお父さんからの電話だからな。オレと思ってその番号に電話かかって来る時ってだいたい悪い知らせだという実績もあり。そのタイミングではお母さんの命に関わる重大事かも?的なニュアンス。おい、あいつ、息してるか?twitterの投稿は19時間前。まじか。仲間総動員して連絡する。あっさりつながる。えっ?

お母さん、PC再起動で復旧。
それはそれでよかったし、お父さんお母さんには罪はないし、むしろ心配するのは当然のこと。

しかし、探される身や連絡を受ける身としてみると、こんなアラートで神経すりへらしたくない。
とわいえ、明日は我が身。実家の両親へ適切な連絡先とプライオリティを告知しておかないといけないな、と感じた次第。
携帯やら連絡手段が確立された今、ちょっとでも連絡がとれない時の騒ぎ方がちょっと過剰かなとも思う。
そして、認知症ぎみな老人達のアラートの上げ方の雑さがアレ。

(時事) 「わたスキ」改めて観るなど

いやあ、バブル入社のお父さんです。
以前、CL Carsというblogサイトへ掲載された「クルマでスキーに行くのが、
最高にカッコ良かったあの頃
」という記事が結構バズったので、思い入れがあって、急に寒くなったので「私をスキーに連れていって」を改めて観るなど。

この映画は1987年公開でまさに携帯電話が浸透する直前ということで、当時の若者の文化をよく表現しているが、実は現在の若者にも通じるエピソードが散りばめてあって、興味深い。当然、当時ならでは、というエピソードもたくさんある。

亡くなってしまった俳優さんの沖田浩之さんが要所要所で写真を撮るわけだが、そのタイミングは今の若者が今の携帯電話で写真を撮るのと似たタイミングなのがわかる。「とりあえず」という決まり文句をつけて撮るあたり、平成の現代でも通用するとおっさんは思ってしまう。

逆に当時ならではというと、まずはPCというかワープロ?


8インチFDドライブを備えるこのマシンはNECのN5200の一点読み。
主人公の三上博史さんは商社マンの設定だが、彼のデスクにはPCはなく、紙になにか書いて書類を作っていた。できあがったらしく、
上司にそれを渡すが、上司は「ちゃんと検算したか?」と確認する。
エクセルがなかった頃のビジネスシーンだ。今なら、エクセルをメールに添付して送る、ということになるが、当時は紙だ。
正しくエクセルを表計算ソフトとして使っていれば検算いらないよねw。
しかも、この商社、オフィスのどこでもタバコが吸えるらしい。
これも当時ならではだ。
携帯がないから、待ち合わせの店の公衆電話から会社へ電話。
しかもダイヤル電話だぜ(懐)

そして「凍ってるね」に代表される車関係もネタ満載だ。

スキー的には懐かしかったのがこれ。学生時代によくやってた。

でも、これはやらなかった。

そんなわけで、今みてもまったく色あせないキラキラしたあの頃を思い出して焼酎をちびちびやるのに最適でござるよ。

(お父さん) 不整脈治療でカテーテルアブレーション手術を受けた

26歳の時に大きな病気をして26年後、また病気になった。
病名は「心房粗細動」。わかりやい症状は「不整脈」。
仕事中とか、夜寝てる時とか、なんだか鼓動がやたらと速いタイミングがあるのは薄々気づいてた。
まあ、いい歳だし、ある程度の不整脈は仕方ないだろう、的な理解で放置してた。
ここ数ヶ月、発生頻度が増えた気がして。日に数回ドキドキするようになってた。
恋かな、とも思ったけど、ちょっと相手に心当たりがなかったので、いつも喘息の薬を処方してもらってる会社の隣のクリニックへ。
ホルター検査という24時間心電図を取るセンサーをつけて計測してみたら、一発で症状を確認。この頻度はちょっと看過できない、ということで治療することに。
左心房の動脈の周りで不正なパルスを出して鼓動を乱す因子がいることは判明しているらしく、そこをレーザーで焼いてパルスが届かなくすれば治る、という「アブレーション治療」というのが確立されていて、これを受けることにした。

病院はクリニックに紹介してもらった八景島シーパラダイスの隣にある横浜市立大学附属病院
事前に2回外来に通って検査と説明など。
もともと予約をしておいた月曜日に入院、手続きとそれまで飲んでた薬を受付で渡す。

病棟の人が迎えに来て、ベッドへ案内され、早速心電図モニター装着。
病室は八景島の海が見渡せる9階の4人部屋。
それにしてもこの病院、携帯で通話をしていい場所は限定されているが、病室で携帯もPCも自由に使っていい。しかも、電源タップまで無料で
貸してくれる。充電し放題、仕事もできちゃうじゃないかー。

すでに心電図が乱れまくっている様子が見て取れる。

初日はレントゲンと心電図を取ったら、あとは経食道エコー検査といって、食道から超音波カメラを入れて心臓に血栓がないかを確認。

結構つらい検査らしいけど、麻酔で寝てる間に終わっちゃったので、全然つらくなかった。

検査から戻ったら、こんな連絡板表示が。

ああ、そうですか、尿道バルーンですか、そうですか。憂鬱だなあ。
そして、うちの娘の似た背格好の看護士さんが電動シェーバー持ってきてくれて、「剃毛をお願いします(にっこり)」と。セルフでやるのか。
2階のコンビニで石鹸買ってきてシャワールームで自分でウイーンと。
詳細は割愛するが、つるつるにはならず、カテーテルを刺すあたりだけキレイにしてあとは適切なレベルで。
部屋に戻ったら看護士さんに「ちょっと確認します(にっこり)」と言われて確認してもらい合格をもらう。

少年のようにさっぱりしたキモチで、仕事のメールとかして初日は消灯。

明けて火曜日。病棟の朝は早い。隣のベッドのおじさんなんか、もう、4時くらいから起きてる。
まあ、9時消灯だもん、そうなるよなあ。6時になったらばっと電気着けてかってに起床(100kmハイクのアレを想像して欲しい)。
ほかのおじさんふたりも起き出してきた。
検温、血圧測定のあと、朝食を待ってたが、朝食抜きと気づいたのは先生が来た時。
あわててクスリのんで、儀式を実施。痛いよう。

そのまま9時の手術開始に向けて手術室へ移動だけど、え、自力で歩いて行くの?
この管入ってると歩く振動が響いて痛いんだってばー。ソロソロと歩いて移動。

乗って帰る予定のストレッチャには乗せてくれないらしい。

緊張気味に手術室へ。

手術台に横になったらテキパキとセンサー着けられて、両脚に血栓発生防止のマッサージ機みたいの巻かれて、紙かけられて見えなくなって麻酔されて寝ちゃったけど、右鎖骨下からと、左右の脚の付け根からカテーテルいれられてグリグリされてた感覚がしたのはうっすらとした記憶。
グリグリよりも麻酔の注射が痛かったなあ。
後から聞いたら、右脚の付け根からは3本の太いカテーテルが入れられて、心臓右心房の内壁の130箇所を焼いたとのこと。手術は9時開始、14時終了。
大体終わったところで起こされて、「ワンツースリッ」ってストレッチャに移されて病室へ。なんとなく意識はあったので、パターン分けして3つ書いてあったfacebook投稿用の原稿のうち、成功パターンのやつを投稿。
これから始まる6時間の動いてはいけない絶対安静をお友達の声援で乗り切ろうという作戦。これが的中して、かなり元気出たし気も紛れた。
声援をくれた友人たちに感謝。

6時間動かないで仰向けで寝てるのって、まじでツライのよ。
「動かない」のと「動いちゃいけない」の差は結構でかい。
腰とか完全にイヤになっちゃうし、気分悪くなるほど。
26年前もカテーテルで造影剤入れて検査したから初めてではなかったので余計ツライの知ってるから最初からここがキモだってわかってたさ。
麻酔できないからな、ここは。

左側臀部は26年前の傷があって、もともと血行が悪いので、この安静はだいぶ辛かった。左脚の付け根は細いカテーテルが一本だけだから、4時間後には膝を立てる許可がもらえて気分的も楽になった。右脚の付け根にはは太いのが3本入ったらしく、時間短縮は不可とのことだった。
そうこうして6時間の安静をクリアし、止血も確認され、寝返りまでOkに。
それにしてもあの管が違和感満載。
あと血栓防止のマッサージ機はずっとグイングイン動いてて近所迷惑な感じ。

寝たり起きたり、スマホいじったりしてようやく朝に。3日目。水曜日。
検温とか血圧測定とかしてたら、先生が来て、カテーテル刺したあたりのガーゼとテープ剥がしてくれたけど、これが、超強力で一部出血。あうう。
そして問題の管を抜いてもらって人間の尊厳を取り戻した。
同時に点滴の針も不要となって、残るは心電図モニターだけに。
10時までにレントゲンと心電図を取るために違うフロアに行くのに車椅子に乗せられた。安静が必要とのことらしい。これらを終えたら、「今日はもうイベントありません」と言われて仕事のメール処理開始。
完全にリモートワーク状態。
昼前に先生から明日退院を告げられた。
今回は「転移」とか「5年生存率」みたいな物騒な話しは一切ないので、本当にキモチが楽だ。

同室の方々は皆さん年齢的には10~30歳くらい上の方々で、初期の喉頭がんの方たちだった、となりのベッドのおじさんは抗がん剤で吐いてたり、向かいのベッドの叔父さんは明日手術だそうで、そわそわ落ち着かない。
なんども手術時間を確認し、家族の到着時間も確認したり。わかるわかる。
不安だよなあ、首のあたり切られるんだから。
大丈夫、オレも昔がんだったけど、今回はがんじゃなくて心臓だし、きっと治りますから、と先輩たちをなぐさめたりしてね。

3日目のランチは金沢八景ならではのシーフードパスタ(違)

午後もパソコン見てたら、明日の会計の概算が到着して目眩しそうだったけど、
動悸はなかったので、手術の成功を確信したなど。

4日目木曜日の朝、

波形も数値も正常と確認され退院。
食事の数分後にバクバクしたり、寝てて急にドキドキするなんてことは手術以来、一度も起きてないので、手術は成功しんたんだと信じて。
成功率というか寛解率は70%で、2回めをやる人もいると聞いてたのだが、それはなさそうな予感がしてる。

この病気の要因は遺伝とストレス。
手術を決めた頃、父親へメールで確認したところ、彼にも不整脈があり、いろいろ治療を受けていたことが判明「すまんすまん、お医者さんから息子たちへ言っておくよう言われてたんだったよ」って、遅せーよ(笑)
ただ、彼はアブレーションまではしてないらしい。当時はまだ手術方法が確立してなくてリスクが今よりたかかったからとのこと。
お詫びのつもりか、ここ数年の神奈川県内の病院のアブレーション手術の実績データとか調べて来て、その病院で本当にいいのか?とか言って来たり。
3日目に見舞いに来たが、全然普通なオレを見て拍子抜けしてた。

さて、26年周期での大病ということなら、次は78歳の時の予定だが、それまで生きてるかな、オレw

<まとめ>
・医学の進歩ってスゴイ
・病院のIT化もすごい
・じいさんは入院するとダダっ子少年になる
・布団にネコいないと寂しい

(後日追記)
経過観察で診察を受けた時に、電子カルテで心臓への照射位置の画像を
見せてもらった。画面の撮影はOKだったので、撮ってきた。
こんな感じ。

(クルマ) LEDが「シカっパシっ」と光る、最近のドアミラーが苦手だ(カレントライフ編)

シカっパシっ!

(お父さん) 震災の時、ドライバーをしたこと

昔むかし、facebookの投稿には文字数制限があって。
ちょっと長く書こうと思うと、「ノート」というfacebook内のアプリを使う
必要があった。いつの頃から、文字数制限はなくなって、ノートに書いたことは
埋もれそうになっている。というわけで、震災の年、2011年3月21日にノートに
書いたことをこっちに再掲載しておく。

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(地震) 弾丸ドライバーボランティア報告(女川)
2011年3月21日 13:50

<きっかけ>
前職時代の知人が紹介してくれた「弾丸ドライバー」募集のtweet。
何も考えずとりあえずRTしてエントリー。電話では金曜の晩出発かもと言われたが、
とりあえず金曜はナシ。あっても土曜の晩出発、との連絡あり。

<呼び出し>
明けて土曜日、連絡はもらえなかったので、午後電話してみたら、「今晩の便は人が
足りたので、今週末は大丈夫かも」とこと。娘と売り切れ続出のヨーカドーを
見に散歩に出て、ヤキトリを買って帰って、ビール開けてさぁ、飲もう、
というところで電話。
「今晩いけますか?」
とりあえず「行けます」とだけ答えて準備開始。
嫁さんが心配しているのは安全だけではなく、そのボランティアのバックグラウンド。
本当に善意の人なのか?特定の政治団体や宗教団体と関係があるのではないか?
行き先はどこなのか?と当たり前のギモンをぶつける。

そりゃそうだ。被災地のために何かできる、というイキオイだけで舞い上がっていて、
そういうところをまったくケアしていなかった。ただ、行かない前にそれがわからない
という理由だけで断るのもいかんな、と考えとりあえず指定の9時に集合場所の都内
某所へ行ってみた。

宅配便の集配所のようになっているが、CMの制作会社のオフィス兼スタジオらしい
(後できいた)。入り口に同じ会社のクニがいるのを発見。なんだ、そういうことか。
まぁ、わかってしまえば、安心。ここでは詳細は置いておくけど、決してアヤシイ
ものではありません、ということはわかった。

到着直前に電話あって、「出発、明朝の5時に変更なんですが」と言われてましても、
その時間にここに到着する時間がありませんので仮眠させてください、とお願い。
地下の会議室の床で支援物資のふとんを借りて仮眠して朝を待つ。

<出発>

果たして、明るくなって、だんだん人が集まって来て、結局出発は7時ちょい前。
トラック1台とマイクロバスで東北道へ。蓮田で合流するトラックの運転要員に
アサインされたので、蓮田まではトラックの助手席。北へ向かうタンクローリーを
何台も目撃。早く早く。

<仙台>
白石付近で交差する新幹線の高架線が斜めになっているのを発見したあたりから
東北道に段差が増え、緊急工事をした跡も多く、トラックが縦揺れを始める。
仙台市内まで運転して、プロドライバーのS氏へ運転を交代。
助手席でUSTを始めたら、路肩にガソリンスタンドへ続く長い車列。1kmはあった
かな。国道45号線、多賀城の中野栄という駅を過ぎたくらいから、道路の両側に
ようやく原型をとどめたレベルのクルマの残骸が路肩に並んでいる。
津波にで流されて道の真ん中にあったクルマを寄せたんだろう。通りの左右に並ぶ
店や駐車場には積み重なったクルマ、ひっくり帰ったクルマなど多数。
地図を見たら、仙台塩釜港のスグ近くなのね、そのへん。
屋根やボンネットに白い紙がはってある、納車前の新車らしい被害車とかもあった。
クルマが傷んでいる姿は本当に悲しいし、オーナーの気持ちは察するにあまりある。
市内の関係者と調整して目的地は女川へ決定。三陸自動車道経由で女川へ向かう。
途中、津波ではなく、川のはん濫で被害を受けた地域も通過。
多分、陸前稲井あたりで旧北上川がはん濫したのだと思われる。
また、万石浦でも、湾が溢れて石巻線の線路を海水が襲ったあとがあった。
このあたりから携帯は全部圏外。

<女川>
女川バイパスで峠を超え、下り始めたら、そこは津波の被害を受けていた。

とにかく、「かなりの標高のところまで」「根こそぎ」やられている。
街の高台にある市民会館みたいな建物でも、そこまで波が来たことがわかる。

多分、5階か6階の高さまで水に使ったのだと思う。クルマがいろんなところに
想像を絶する形でひっかかっている。それぞれは重たい金属のカタマリなのに。

大きな鉄筋のたてものも、かろうじて残ってはいても、屋上まで水につかって
しまっているし、まっすぐ立ってないものも多い。

本当に「根こそぎ」だ。
そして、かなり高台の上でも磯の匂いが強い。

<物資>
物資を貯蔵している第二小学校の体育館には、物資は比較的たくさんあった。

取りに見えたと思われる地元の人は申し訳なさそうに、一箱とか二箱をお持ちに
なる程度。クルマで来て「XX地区でーす」という方々も控えめに数箱お持ちに
なるだけ。すぐ近くに避難所があるが、そこへ行って被災された方々と直接
会うのはあきらめた。どんな言葉もかけられないと思ったし。「がんばって」
なんて言えないと思った。がんばるのはこっちだ。
そして、この倉庫にある支援物資を被災者の方々(避難所にいる人、かろうじて
自宅にいられる人の両方)にちゃんと渡る算段と段取りをやって欲しいと思った。
どんどん届く物資の前で担当しているであろう人は既に無力感満載だった。

この役目は被災者ではなく、物資を持って来た側が責任もってやるべきだろう。
置いて来ることは、援助の中で50%も済んでいないと思った。持って行くほうは
これで大丈夫、99%済んだと思うかもしれないが、実は半分もいってない。
その先がタイヘンなんだと知った。

<帰り>
万石浦の満潮(?)で海水が溢れて、道路が冠水していた。水深30cmくらいは
あったか。その後しばらくブレーキの片効きに悩まされた。

三陸自動車道+東北自動車道を弾丸で帰って、トラックの都合で解散は
東西線西葛西駅で22時半くらい。自宅到着24時ちょっと前。
オツカレ。
家族といっしょにいられること、温かいものが食べられること、ビールが
飲めること、どれも普段は当たり前だけど、本当に大事なことと知った。
撮ってきた写真を見てたら涙が止まらくなった。
ボランティアらしいボランティアは実は初めてだったが、やってよかった、と
いうことよりも、自身への問いかけが多くのこった体験だった。