(時事) 昔、病気をしてたこと

抗がん剤をdisる記事を発見したので、がまんできず、storys.jpから転載。

1991年3月27日、この日、オレ、とある手術を受けてた。
生体検査のため、患部(左側臀部)の一部を切除する手術。
同日、元嫁(当時カノジョ)のお父さんが急逝。
それ以来、元嫁の親族は「あんたを助けるために代わりにお父さんがっ」と皆言う。しかし、数日後、検査の結果、悪性腫瘍であることが判明。
一週間後の1991年4月3日、でかい手術を受けた。
一度でも手術(検査)をすると悪性腫瘍の進行は一気に早まるので、判明する前から手術は予定されていた。良性か悪性かで違うことは切り取る範囲。
悪性だった臀部の患部を大きく切除し、そのままでは歩けなくなるので、左の腹筋を臀部へ移植、そして皮膚は左胸部の皮膚を移植。
なので、腹筋は今でも右半分しかないのよ。 鍛えても3パックまでw
筋肉は一本一本は太くなるけど数は増えない。

サイショに行った病院では、「白尾さん、左足はあまり自由にならないかもしれません」と言われた時に「歩けますか?」の前に
「先生、オレ、クラッチ踏めますか?」って聞いた。
「車椅子になるかも、って宣告した人にクラッチの相談されたの初めてです」って先生も言ってた。とはいえ、車椅子は大変だよな、ってことで、専門の病院を紹介してもらって転院した。それが癌研究所病院(当時は大塚。今は有明に移転)。

退院して、その後1991年5月~12月にかけて抗癌剤の投与。
最初の投薬の1週間後の1991年のGWのある日、頭髪が抜け始めた。
頭髪が一番目立つけど、他の毛も抜ける。もう、少年のよう*^o^*
当時の抗癌剤は今と違って、とにかく強力。悪いものを叩くためにはいい細胞もどんどん叩く。副作用としての、ものすごい吐き気と倦怠感。どういう強さにしたら、どこまで効くのかという研究段階だったクスリも投与してもらった。当然、誓約書にサインしてね。強いクスリだったので、成人男性でも6回しか投与できないものだった。

「東京タワー ボクとオカンとときどきオトン」の樹木希林さんの迫真の演技を観たとき、20年経っても口の中に抗癌剤の匂いが蘇って吐いたりするほど。自分と同じ当時の抗癌剤の投与を受け、子孫をなした例は日本でも1例だけらしく、うちの娘の笑顔はどこぞの学会でも紹介されているらしい。この前後、実家の両親や弟、そして元嫁(当時カノジョ)をはじめ、親戚友人知人各位には多大なる心配をかけたわけだが、20年以上たった今日現在、なんとか生きてる。
5年後の生存率は40%と宣言されていたわけだが。ごめんなさい。ありがとう。
当時、癌研究所病院に入院中に発生した伝説のお見舞い事件。

G:「おう、シラオ、元気か?」
S:「元気ぢゃねーから入院してるんだってば」
G:「そうだよな。ところで、周りの人、みんな癌なの?」
S:「しーーーーーーっ」

そんなわけで、桜が咲く頃はいつも当時のことを思いだし、元嫁(当時カノジョ(しつこい))、実家の両親、弟、当時の会社の同期の仲間、そして、親戚、友人、知人に感謝の念を表明してる。今日まで元気で来れたのは、周りの人達に支えられ、心安らかにそして、笑顔で来れたから、と思い、本当に感謝してる。毎年、胸部のCTスキヤンを撮り続け、肺を含めた他部位への転移がないかチェックをしているが、ツライ闘病というよりも、前向きにポジティブに、笑ってやってきたことが、悪性腫瘍を封じ込める最大のクスリであると信じてる。

∴癌は治る。
(2008年4月にmixiに書いた日記を加筆修正)
(2018年 嫁さん→元嫁に修正)

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  1. ピンバック: (お父さん) 不整脈治療でカテーテルアブレーション手術を受けた | お父さんの小言

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